「遺伝子(下)」シッダールタ・ムカジー著 早川書房2018/06/28 08:42

「不完全な世界は我々の世界」
冒頭で著者は、詩人ウォレス・スティーブンスの言葉を引用しているが、これが本書の要旨となる。

下巻では、遺伝子解読、ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)、そしてクリスパーキャス9による遺伝子改変などがテーマとなる。

以下興味の引かれた言葉を引用する。
「健康を定義するために病気が使われ、異常が正常の境界を定め、逸脱が適合の境界を定める。鏡文字を介した結果、医師の目に映るヒトの身体は壮絶に歪んでしまう可能性がある。」
「確実に言えることは、危険な海峡の横断を生き延びた人類はごくわずかだったということだ。ヨーロッパ人や、アジア人や、オーストラリア人やアメリカ人はこうした凄まじい難関を生き延びた人々であり、この試練に満ちた歴史もまた、我々のゲノムにその痕跡を残している。」
「一番最近の推定によれば、遺伝的多様性のほとんどは、いわゆる人種の内部で見られ、ごくわずかな割合だけが人種間で見られることがわかっている。…このように、人種間の多様性が非常に高いために人種というのはどんな特徴の代わりにならないほどお粗末な概念と言える。」
「ヒトの多様性をどう分類し、どう理解すればいいのかを遺伝子が教えてくれることはない。しかし、環境や、文化や、地理や、歴史は教えてくれる。我々の言語は遺伝子と文化とのあいだのこのずれを捉えようともがきながらも混乱している。ある遺伝子多型が統計学的に最もありふれている場合には、我々はそれを正常と呼ぶ。…このようにして我々は遺伝子多型に言語的な差別を差しはさみ、生物学に欲求を混ぜ込む。」
「20世紀初頭の遺伝学がそうであったように、エビジェネティクスは今、ニセ科学を正当化し、窮屈な定義を押し付けるために使われようとしている。」
「大きな苦しみを定義するのは、私たちであり、正常と異常の境界線を引くのも私たちだ。介入という医学的選択をするのも私たちであり、正当化できる介入とはどのようなものかを決めるのも私たちだ。」
「正常とはなんだろう?親が正常な子供を選択するというのは許されることなのだろうか?介入というまさにその行為によって、異常のアイデンティティが強固なものになったらどうなるのだろう?」
「我々は今、ヒトゲノム工学における同様の瞬間に、つまり、胎動が始まる瞬間に立ち会っている。以下の段階を順に考えてみよう。(a)本物のヒトes細胞を樹立する。(b)精度の高い手法によって、そのヒトes細胞株の遺伝子を意図的に改変する。(c)遺伝子を改変したそのes細胞からヒトの生死や卵子を形成する。(d)遺伝子を改変したその精子と卵子を体外受精させてヒト胚を作る…すると、かなり簡単に遺伝子改変人間が誕生することになる。」

そして最終章で著者はこう述べて締めくくる。
「しかし実際のところ、何が自然なのだろう?一方では、自然とは、多様性、変異、変化、不定、可分性、流動性であり、また一方では、不変性、永続性、不可分性、正確性である。矛盾する分子であるDNAが、矛盾する個体をコードしているというのは当然のことのように思える。我々は、遺伝に不変性を求め、反対のもの、そう、多様性を見つけるのだ。」

深く考えさせられる著作である。

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